超歯車論

幼い時に読んだ雑誌の中にどうしても忘れられないフレーズがある。
部分的にしか覚えてないのだけれど、
タイトルは「左手」。

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ある日筆者は左手に怪我をした。
包帯グルグル巻きの筆者に友人たちが声をかける。
「大変だったね。大丈夫?」
そして必ず同じ言葉を添える。
「でもよかったね。右手じゃなくて。」
可愛そうな「左手」。
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エッセイはそこで結ばれていた。

かわいそうな「左手」。
私はそのフレーズを読んで、自分自身を言い当てられているような、
でも筆者はそんな自分を理解してくれるような、不思議な感情を覚えて、
何度も何度も自分の左手を眺めていた。

大切にされる、注目されるものの一方で、無意識のうちに価値を下げられてしまっているものたちがたくさんある。

幼いときはその心無い一言一言に反発を覚えていた。

大人になって、少しばかり強くなって、
私はそんな言葉の一つ一つに悲しんでたら身が持たないことに気づいた。悲しみは結局何も解決しない。

かといって気づいてしまった以上、素直にうなづいたり、あきらめたりなんかしたくはない私。
あれこれ感じて、考えて、行きついた。こうした対話への最強の反応は、悲しみや、反発を超えた感情。
状況を楽しむゲームの感覚だ。


例えば広告を売るという仕事。営業と言う仕事。企業で勤めると言う事。少なくない人々はコメントする。
「広告ってじゃまよね」
「営業ってお願いばかりなのは嫌よね」
「会社の歯車って嫌よね」

そう言われたら、同意はせずに、自信たっぷりに言いきるの。

「広告すごく面白い!」
「戦略的な殿様営業より、お願い営業で生き残れる人の方が実はおちゃめさんに違いないって信じてる。」
「会社の歯車ってかっこよくない?」

世の中楽しんじゃった者がちなんだもの。

お誕生日の夜に急な仕事が入ってしまい、深夜残業を余儀なくされてしまった私。カップラーメンのうどんの器に大粒の涙こぼしながら、気づくと
カップラーメンと深夜残業って実は誕生日の風景にすごーくマッチするのよ」って何度も言い聞かせていた。